เข้าสู่ระบบその純粋な信頼が、今は何よりも鋭い刃となって私の胸を抉った。
かつて誰も信じられず、暗い孤独の中で震えていた彼。私がようやくその分厚い氷を溶かしたのに、私が彼を再び、さらに深い孤独の底へと突き落とそうとしている。 彼は知らない。 その「頼みの綱」である私が、今まさに彼を地獄へ突き落とそうとしていることを。「……うん。信じてる」 私は精一杯の笑顔を作った。 頬の筋肉がひきつりそうになるのを、必死で抑え込んで。「そういえば」 湊が、ふと思い出したように明るい声を出した。「週末のことだが……少し予定を変更しようと思うんだ」「え?」「温泉に行こう。……箱根の、隠れ家みたいな宿を見つけたんだ。露天風呂付きの部屋で、誰にも邪魔されずにゆっくりできる」 彼は子供のように目を輝かせて提案した。「君も疲れただろう? 美味しいものを食べて、温泉に浸かって&hel「ですから、私どもの『Swan Bridal』からは、より現実的な代替案をご提示させていただきますわ」 真琴が細い指先を動かすと、スタッフが別のタブレット端末を手前に滑らせた。画面に映し出されたのは、緑豊かな郊外に佇む、クラシカルな洋館のパース図だった。 「私どもが提携している、旧華族の邸宅を改装したゲストハウスですの。バリアフリーでは九龍ホテルに劣るかもしれませんが、完全なプライベート空間を確保できますわ。マスコミの目も、お家騒動の噂も届きません。格式を重んじるご親族も、こちらなら納得なさるでしょう。……奈々様、会場を変更された方が、お母様のためにもよろしくてよ」 完璧な正論。 非の打ち所のない、美しく、上品な解決策。 壁際の役員たちが、我が意を得たりとばかりに深く頷く。 『やはり白鳥さんの提案は素晴らしい。トラブルを避けるのが、今の九龍には最優先だ』 『一般客の我が儘に付き合って、これ以上ホテルの評判を危険に晒す必要はないからな』 じりじりと、焦燥感が皮膚の表面を焦がしていく。 手元に置かれた、最初の見学時に奈々が書いた手書きのメモに視線を落とす。 そこには、震える文字で『母と歩く』という一言の横に、マーガレットの小さなイラストが描かれていた。 それは、ただの代替会場で『綺麗に片付ける』ことでは、絶対に救えない本音だ。 洋館の階段、芝生の段差。いくらプライベート空間を謳っても、病気療養中の母親の体にどれだけの負担がかかるか、図面を見れば一目でわかる。真琴の提案は、花嫁の心を救うためのものではない。ビジネスとして、体裁よく『厄介払いをすること』が目的なのだ。 「……それは違います」 静かに立ち上がると、パンツスーツの生地が擦れる音が、相談室の空気を鋭く切り裂いた。 全員の視線が、一斉にこちらへ集まる。 隣に座る九龍湊の黒い瞳が、じっとこちらの動きを追っているのが、気配でわかった。彼は何も言わない。ただ、その広い肩を少しだけ引き締め、すべてを委ねるように背中を預けてくれている。 胸の奥が、トクンと熱く脈打った。 「白鳥様。……その洋館のプランでは、奈々様のお
ぽつり、とテーブルの上の白い木目に落ちた大粒の涙が、丸い輪を作ってじわりと染み込んでいく。 相沢奈々の肩は、小さく、小刻みに震えていた。握りしめられたハンカチは、何度も涙を拭ったせいで、すでに湿って小さく丸まっている。 相談室の空気は、張り詰めた糸のように張り詰めていた。窓外の強い陽射しが、磨き上げられたアクリル板に反射して、痛いほどの白さで室内を射抜いている。 「……母と、バージンロードを」 かすれた声が、室内の静寂をかろうじて震わせた。隣に座る航平が、奈々の背中にそっと大きな掌をあて、宥めるように上下に動かす。上質なウールの擦れる音が、微かに響いた。 「母は、長い時間の外出が難しいんです。車椅子でも、段差が少しあるだけで体に負担がかかってしまって。……でも、九龍ホテルを見学した時、ここならロビーから式場までスロープが整っていて、母が車椅子のまま移動できるって、案内していただいて」 奈々の指先が、テーブルの上に広げられた予算表の端を、きつく、白くなるまで掴む。 「マーガレットが、母の一番好きな花なんです。豪華な薔薇じゃなくていい。地味で、どこにでも咲いている花だけど、実家の庭にたくさん咲いていて。……ここで、その花に囲まれて、母の手を握って歩けたら、もう他には何もいらないって、二人で話していたのに」 喉の奥で押し殺したような嗚咽が、カチカチと時を刻む壁時計の音に混ざる。 相談室の端に控える役員たちの間から、微かな衣擦れの音が聞こえた。守秘義務の確認書にサインしたばかりの彼らでさえ、どこか他人事の顔で資料を捲っている。紙の音が、カサリと冷たく響いた。 円卓の上座に座る白鳥真琴は、その瑞々しい涙の告白を前にしても、眉一つ動かさなかった。純白のドレスの胸元に飾られた真珠のブローチが、初夏の光を浴びて無機質に光っている。 「……たいへん、胸を打たれるお話ですわね」 真琴の声は、驚くほど平坦で、涼やかだった。感情の揺らぎを一切排除した、完成された淑女の響き。 「お母様への想い、そしてマーガレットの記憶。一般の御家庭ならではの、ささやかで温かい物語だと思いますわ。……ですが、航平様」 真琴の切れ長の目が、今度は新
◇ 通された個室の空気は、張り詰めた糸のように繊細だった。 小さな丸テーブルの向かい側に座る相沢奈々は、お気に入りの吊るしのワンピースを身に纏い、肩をすくめるようにして俯いていた。 その指先は、冷めかけた紅茶のカップの縁を、何度も何度も、不安そうになぞっている。 その無防備な、今にも壊れてしまいそうな仕草に、かつて拓也と美咲の裏切りに直面したあの日の自分の姿が、痛いほど重なった。「……すみません、お忙しいのに、こんな大掛かりなことになってしまって」 奈々の声は、ひどく小さく、掠れていた。 テーブルの端には、白鳥真琴のチームが用意した、豪華なカタログや代替会場のパンフレットが整然と並んでいる。「白鳥様のご提案も、すごく……綺麗で、素敵だと思います。別のホテルなら、親戚の叔父たちも『縁起が悪い』なんて怒らないでしょうし……」「奈々様。他の会場のことは、今は忘れてください」 私は、彼女の手元へそっと温かいおしぼりを差し出した。 少しだけ崩した、親しみやすい口調。「私が聞きたいのは、九龍ホテルを最初に見学された時、奈々様がノートに書いてくださった『マーガレットの花』のことです。……あの花を飾って、どんな一日を過ごしたかったのか。それだけ、教えてくれませんか」 奈々の指先が、ピクリと跳ねた。 横に座る真琴が、不快そうに微かに目を細めるのが視界の端に入る。「それは……」 奈々は唇を噛み締め、大粒の涙が、その睫毛の先からぽつりとテーブルへと落ちた。 じっとりとした沈黙が、部屋を満たす。 誰かが言葉を発するのを待つ、焦らしの時間。 時計の針の音だけが、カチ、カチと、スローモーションのように遅く響いていた。「本当は」 奈々は、絞り出すような声で言った。 その肩が、小刻みに震え始める。「本当は……病気療養中の、母と一緒に、バージンロードを
ペンを置き、円卓の上の資料を両手で引き寄せる。「お客様が、どれだけの時間をかけてその一日を選んだか。どれだけの想いでお金を貯めてこられたか。……それを、こちら側の都合や利益率だけで『小振り』だと切る権利は、私たちにはありません」「理想論ですわ、茅野さん」 真琴は、唇の端を僅かに吊り上げて微笑んだ。「ビジネスには適正な規模というものがございますの。九龍の婚礼事業を任せる人間に必要なのは、そういう冷徹な判断ですわ。温情だけで会社が回るとお思い?」「温情じゃありません。信用の話です」 タブレットの画面をスワイプし、過去のキャンセル顧客の推移グラフを役員たちの方へと向けた。「一連の騒動で、九龍ホテルが失ったのは富裕層の売上だけじゃありません。『あそこは危ない』『縁起が悪い』という、普通のお客様の不信感です。……相沢奈々様のご親族が反対されているのも、そこです」 役員たちの一人が、気まずそうに顔を背ける。「ここで利益が出ないからと相沢様を切り捨てたら、九龍は『騒動を起こした上に、一般客を冷たく扱うホテル』になります。逆に、この状況で一組のご家族の信頼を取り戻せたら。……それこそ、新しい『Imperial Vows』が見せられるブランド価値です」 一気に言い切ると、少しだけ呼吸が荒くなった。 隣に座る湊の気配を感じる。 彼は口を出さなかった。万年筆を指先でもてあそびながら、こちらの横顔を、深い、熱を帯びた眼差しで見つめている。 その視線が肌に触れるだけで、胸の奥がキュンと狭くなるような、奇妙な高揚感が立ち上ってくる。「……ふん。ずいぶんご立派な理屈ですわね」 真琴は、背もたれにゆったりと身体を預けた。「では、その『小さな式』とやらを、どのように救うおつもり? ご親族の反対は、ただの感情論ですのよ。私たちの用意した、別会場での上品な代替プランの方が、よほど現実的ですわ」「代替プランじゃ、花嫁の本音までは救えません」 私は立ち上がり、相談室の扉へと視線
◇ 翌日、場所をホテルの奥まった相談室へと移し、相沢様ご本人の同意を得たうえで、必要最小限の関係者だけが同席するプラン提示の場が設けられた。 赤茶けた色艶の長大なテーブルを挟み、白鳥真琴のチームと、こちら側が対峙する形になる。壁際には、先日のお茶会にもいた初老の役員たちが、相変わらず値踏みするような目を隠そうともせずに並んでいた。 相談室といっても、普段は高額顧客の成約前面談に使われる部屋だ。壁には淡い金色のクロスが張られ、棚には引き出物の見本が整然と並んでいる。けれど今日は、その上品さがかえって息苦しい。湯気の消えた紅茶の香り、革張りの椅子の軋み、誰かがボールペンをノックする小さな音。その一つひとつが、奈々様の人生を数字で裁くための合図みたいに聞こえた。「……資料を拝見いたしましたわ」 白鳥真琴は、手元のタブレットを細い指先でトントンと叩きながら、ふうとため息をもらした。 窓からの硬い陽射しが、彼女の白いスーツの肩口を冷たく照らしている。「相沢奈々様のご予算、参列者の規模。……正直に申し上げて、九龍の看板を立て直す題材としては、いささか小振りですわね。利益率も低く、広告効果も見込めません」 真琴は、隣に控えるスタッフへ視線を流した。広げられたのは、最高級のシルクやクリスタルを使った、別会場での少人数婚の華やかなパース図だ。「九龍に必要なのは、世間を圧倒する富裕層の婚礼ですわ。このように、騒動に怯えてキャンセルを申し入れてくる一般のカップルは、適正なキャンセル料をいただいて、相応しい別会場へご案内する。それが、お互いのためではありませんこと?」 息をするように、人を、式を、格付けしていく。 壁際の役員たちが、そうだ、と言わんばかりに深く頷くのが見えた。『白鳥さんの仰る通りだ。九龍ホテルの格式を戻すには、それなりの客を選ばねば』『手間ばかりかかって利益の出ない一般婚など、今の我が社には重荷でしかない』 手元のペンを握る指先が、白くなるほど強張る。 心の中のツッコミが、ふつふつと泡のように湧き上がってきた。 この人
剥き出しの刃のような言葉が、鼻先をかすめていく。 白鳥真琴の細い指先がこちらの胸元を示したまま、ぴたりと止まっていた。百合の香水が、ホワイエの澱んだ空気の中でいっそう鋭く香る。 負けた方が、このプロジェクトから降りる。 提示された条件は、単なる勝ち負けのゲームではなかった。ブライダルコーディネーターとしての居場所を、存在意義そのものを九龍から消し去るという宣告だ。 喉の奥が、からりと乾いた音を立てる。 周囲に集まった夫人たちの衣擦れの音が、さざ波のように小さく広がっては消えた。誰もが次の展開を期待して、熱を帯びた目を向けている。 背後に立つ九龍湊の気配が、僅かに変わった。 ウールの上着が擦れる微かな音が聞こえ、一歩前に出ようとする大きな靴音が床に響く。指先がこちらの腰の後ろへ回され、引き寄せようとする強い力が加わった。 それを、背中で押しとどめる。 大丈夫。 衣服の生地越しに伝わってくる男の高い体温が、緊張で強張っていた背骨を真っ直ぐに支えてくれる感覚があった。「受けます」 いつものプロの微笑みを、頬の筋肉を総動員して顔に貼り付ける。「この席は、名誉のための椅子じゃありません。お客様の一生に一度を預かる覚悟がある人間が座る場所です。……だから、受けます。その条件で、勝ちます」 白鳥真琴の切れ長の瞳が、僅かに細められた。 口元に張り付いた完璧な淑女の笑みが、ほんのミリ単位で歪む。「威勢のよろしいことですわね。……では、役員会の皆様。対象となるお客様の選定は、どちらが?」「こちらで用意してある」 後ろから、湊の低い、重厚な響きが割って入った。 指先が腰から離れ、デスクの上に置かれていたタブレット端末へと伸びる。画面が滑らかにスワイプされ、個人名を伏せた一つの案件概要が中央の円卓へと提示された。「直近で、我が九龍ホテルでの挙式を予定しながら、キャンセル、あるいは無期限延期を申し入れてきた案件だ。……ご本人の同意が取れた範囲で、後ほど共有する」







